VR(Virtual Reality)の未来を考えてみる

VR(Virtual Reality)の未来を考えてみる

こんにちは。のむらです。
日々、色々なビジネスモデルを研究しているという性質上、
だいたい、一日に一個以上は、ビジネスモデルに関する話をしているような
気がします。
さて、VR(Virtual Reality)のためのヘッドマウントディスプレイというのが
けっこう目につくようになってきました。
先日も、ペプシストロングゼロのキャンペーンで活用され、話題になっていました。
このキャンペーンで採用されたのは、
Oculus Rift(オキュラス リフト)でした。
VRのことを考えると、
よくある反応が、
生身の人間とのコミュニケーションが疎かになる、、
という話でしょう。
物事が変化するタイミングでは、
基本的には悲観的、否定的な声のほうが大きいものです。
とはいえ、ちょっと昔を考えてみると、
mixiを一生懸命つかっていた人たちが、
日本は匿名文化だから実名のFacebookなんか普及しない
と言ってたような気がします。。。
別に、その当時の多くの方の予測が外れたという話をしたいのではなく、
変化のタイミングでは、悲観的な声のほうが大きいものだ、
ということでしかありません。
VRに関する悲観論はけっこうカンタンに聞こえてきますが、
私は基本的に楽観主義なので、楽観的に考えてみたいと思います。
そもそも、人の存在というのをどう捉えるべきか?
ということが曖昧なままに、「生身の人間」とか「生の体験」
ということが言われているように思います。
人の生命をどうとらえるか?という時のひとつの切り口として
「統一的な主体を持つ時間の連続性」
という見方をすることができます。
この切り口で人をみた場合には、
肉体の形状や認識している世界が、
従来の意味での3次元の世界であるかどうかというのは、
あまり関係ありません。
実際のところ、
Facebookを閲覧するために、
Facebookで投稿をするために、
Facebookでいいね!を押すために、
意思を持ってつかわれる時間というのは、
自分の肉体の形状がどうであるかというのは、
既にあまり関係ありません。
押す人がどんな格好をしていうようが、
いいね!はいいね!なのです。
これは、Facebookというひとつの空間が生まれていて、
そこに多くの人の命が注がれている。
従来の3次元の世界の制約を受けずに。
そんな見方ができると思います。
同じように、VRで広がった世界というのも、
そこに人が時間をつかうというのは、
やはり、新しい空間、下手をすると、
だいぶ次元の違う空間に、
人の命が注がれるということでしょう。
その空間が快楽や幸福感をもたらすのであれば、
それはわざわざ否定してそれよりも不快で不幸な時間に
縛られなくても良いのではないでしょうか?
そうすると、種の保存的な文脈から、
生殖行動の減少を気にする人もいるかも知れませんが、
そもそも、種という次元で意志をもって生殖行動をする、
という生き物がいるというよりは、
そういう行動をしていた種が結果論として、
生き残っている、と考えるほうが、
進化論的な見方だと思います。
というのが、日本語で自然淘汰と言われる言葉は、
元々はNatural Selectionという語なので、
本来は、もっと結果論的なニュアンスが強いです。
そうやって捉えると、
新しい次元の世界が出てくることに対して、
不要なストレスを抱えることも無いのではないでしょうか?
好きな人が好きなだけ、
VRの世界に命を注ぐ。
そのことに対して無意識的な否定をするのではなく、
新しい次元に生きることができる可能性が出てきた、
と、今の時代を生きていることを喜んだほうが良いのではないでしょうか?
おそらくは、
一定の割合で、VRの世界にどっぷりな人が出てくるでしょうが、
スマートフォンのゲームで数時間をつかうのと、
実はそんなに変わったことでは無いようにも思います。
もう少しレトロなことを言えば、
生計を立てるためではない目的で
旅行に行ったり、草サッカーをするのとも、
本質的には、同じことでしょう。
※旅行や草サッカーを咎めることが無いのに、
 スマフォゲームやVR用ヘッドマウントディスプレイを咎めるというのは、
 そもそも筋が通ってないです。
ですから、この流れは確実にもっと具体的な、
人々の幸福感や快楽に繋がるようなかたちで大きくなるでしょう。
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