『換金性とはフィクションである』

『換金性とはフィクションである』

こんにちは。のむらです。
今日は、いつものシリーズではありません。
RBCの話シリーズでもありません。
さて、2012年が過ぎ、2013年がやってきました。
私たちは、いつも、古いものが過ぎ去り、
新しいものが次々と向かってくる、
そんな中で生きています。
それを歓迎すれば、変化を楽しむ日々となり、
それを嫌悪すれば、変化に抗う日々となります。
時の流れを歓迎し、嫌悪し、
それが人毎に違っていて、私たちの生活する
社会、すなわち、人の集まりが表情を変えています。
願わくば、変化を楽しみながら過ごせれば、
それに越したことはありません。
有縁の方も含めて、そのように過ごすために何ができるのか?
日々、追求するテーマです。
ひとつ、そのためには、共有すべきことがあると思いまして、
それは、技術は新しく生まれ、情報、価値観は新しく塗り替えられる、
ということです。
私たちの未来予測や道徳観念や正義感というのは、
往々にして、それらのことを忘れた上に立てられています。
今の自分の価値観をベースに、
既存の技術の組み合わせでもって、
それがあたかも「正しい未来」であるかの如く。
しかし、それは常に間違った未来であって、
現実化する未来には、
新しい情報や技術、価値観といったものが含まれています。
さて、振り返ればそのように変化してきた私たちの社会ですが、
商売人としては、「換金性」という概念も、変化の過程で生まれた
私たちの生活における考え方です。
先日、家の近くの駅前の道を歩いていました。
そうすると、チェーンのお蕎麦屋さんがありまして、
その横を通った時に、
「例えば、ここで券売機に数百円のお金を入れる。
 そうして出てくるお蕎麦の価値の源泉(会計的な意味でなく、日本語的な意味で)とはつまり何か?」
ということを考えてみました。
数百円というお金は「店内で蕎麦を食べることができる」
というモノ+サービスを得るために投じます。
では、蕎麦がどのタイミングで価値を持つのか?店舗がどのタイミングで価値を持つのか?
また、割り箸は?どんぶりは?紙ナプキンは?等、
あらゆるモノが価値を持つタイミングというのがあるはずで、
仮に、蕎麦だけに注目してみます。
蕎麦は製麺されたタイミングで価値があるのか?
しかし、製麺されるには、蕎麦粉が必要で、
蕎麦粉になるには、実の加工があります。
実の加工をするには、実の収穫が必要で、
そのためには、実の栽培が必要で、、、、、
と、ずっと遡ることができます。
ただ、遡ることは永遠にいけそうなのですが、
そもそも、それを辿って行くと、
「人間が存在している」とか「世界が存在している」
みたいなところに行き着くわけでして、
蕎麦屋で券売機にお金を入れるという行為の換金性は、
人間が存在している、世界が存在している、
というところとこの理屈だと繋がっていることになります。
が、
人間が存在していることに関する換金可能な価値であったり、
世界が存在していることに関する換金可能な価値であったり、
というのは、人間そのものや、世界そのものが正確に観測されたことで、
初めて正確に試算することが可能になります。
そういうことを考えた時に、
人類の社会というのは、今もなお、
人間のことをもっと正確に知ろう、
世界のことをもっと正確に知ろう、
ということを繰り返しているわけでして、
じゃあ、この蕎麦が260円である根拠は?
と考えると、これはとても曖昧な結論だと分かるわけです。
すなわち、本来、まだ正確に試算できないものを、
試算しました、として取引をしているわけですから、
もう、これはそのプロセス全体がフィクションなわけです。
ということに気づいて、
換金性というのはつまるところ、フィクション。
だから、換金性という共通言語で動いている
「商売」というのも、フィクションだと。
フィクションであると分かると、
ずいぶんと面白くなってきて、笑いたくなってしまいました。
商売というのは、よくある構図では、
作り手と受け手がいて、それらを繋ぐ様々なプロセスなわけですが、
根本的には全てがフィクションなんですが、
どちらも笑えればオッケー!ということです。
商売というのは、笑倍だと。
お互いが笑える仕組みのフィクションなんでしょう。
今年はどれだけの笑いが増えるか?笑顔が見られるか?
どのように想像しますか?
RBCへの会員登録は今すぐこちらから
明日は樋口くんです。

Nomura