『人に会うということ』

『人に会うということ』

こんにちは。のむらです。
今日は、いつものシリーズではありません。
RBCは勉強会の開催を続けています。
学びの場をつくることにより、そこに集う「人の出会い」があります。
さて、ひょんなことから、「人に会うこと」について考えてみました。
考えてみれば、今ここに私がいることは、とても稀有なことであって、
というのも、「私」といった場合の主体は、既に物理層では説明不能な領域にあります。
どういうことか?といえば、
細胞の入れ替わりといことを考えると、我々の肉体というのは、
一定期間で全くの別人になっていることになります。
また、その細胞の完全なる生死と、我々の生死といのは不一致な関係にあります。
(細胞は生きていても、ヒトは死ぬ、という点で)
要は、ひとりひとりの存在を一本の線に例えると、
全ての線がお互い、別次元であり別世界を走っているようなものです。
そこに、肉体という物理層へのリンクがあることにより、
私たちは物理層としての私たちを同じ時空の中で出会わせることができるのです。
可能性を考えると、、、
今、この記事を書いている瞬間にも地球上で生まれている人と死んでいる人がいるでしょう。
そして、それらの人が出会う可能性はとても低いです。
たまたま同じ地球上に生まれて、同じ時代に同じ地域に生まれるのもたいへんです。
さらに、数多ある情報、選択肢を経た結果、同じ時間に同じ空間で顔を合わせるとなると、
もうそれは、奇跡です。
少なくとも、ここまでは、物理層としての存在があっての奇跡です。
ただし、そこから先、「コミュニケーションを深める」という段階では、
また、物理層を離れていくことになります。
言葉というのは、物理層から離れて抽象度が一段高くなっています。
私たちが会話をするというのは、物理層で出会っていながら、
一段抽象度の高い、言葉によってお互いの主体を交流させます。
肉体的接触というのも、それはコミュニケーションではありますが、
しかし、肉体的接触というのも道半ばであって、
言葉によるコミュニケーションには、
肉体的接触よりも浅い場合
もあれば、
肉体的接触よりも深い場合
もあります。
肩書きだとか職種だとか、身に着けている物質だとか、
そういった方向に進めば、接触は浅くなり、
それらの社会的ラベルを剥がしていった先にある「私」と「私」の交流であれば、
それは、接触はより深い
ということになります。
これは、言葉が物理層よりも一段高い抽象度なればこそ、の効用です。
さて、これらのことを踏まえた時、
私たちには、「人との出会い」ということについて、どんな意味があるのでしょうか?
名刺集めだとか、チープな意味での人脈作りだとかいう話ではなく、
そういうことをお互いに意図して交流した時に、本当に素晴らしい出会いがあるのではないかと、
最近、ひょんなことからふと思いました。
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明日は友部くんです。

Nomura