『視点を変える』

『視点を変える』

こんにちは。のむらです。
ちょっと前に、「自由」についてコメントしましたが、
その背景について、思うところを述べてみたいと思います。
先日のコメントでは、
「自由に耐えうる人間になること」
というのを重要な点として述べました。
これは一体どういうことなのか?と言えば、、、
まずは、
「自由」というと、
「自由を手に入れること」
を、第一に目標と設定されることが多いのですが、
実は、その人の目標として設定する「自由」が、
時として、「そんなに自由ではない」ことがあります。
これは、「自由」をどう定義するか?によっても、
微妙な違いが出てきます。
私がここでいう「自由」というのは、(要件として)一義的には
「あらゆる縛り・制約・隷属から、心身共に解放された状態」
を言います。
究極的なことを言ってしまえば、
「肉体を通した、五感による認識」や、
さらに、
「意識、潜在意識ひいては無意識領域の作用」
から開放されることは非常に難しいと思いますので、
(ここまでくると、「自由」ですが、「実感」が伴いません。笑)
「どのレベルまで自由なのか?」
というのはある程度の線引きをした上で「自由」の要件を定義することが
必要なんじゃないかと思います。
とすると、一般的に求められている「自由」の要件として、
(その人がそこまで意識しているかどうかは別として)
「意識領域で実感できる自由」
ということは、間違いないように思います。
では、その中で具体的にはどのような状態が
自由と呼ばれているでしょうか?
イメージしやすい状態
(かどうかは、ホントは一概には言えませんが・・・)
としては、「消費行動/所有における自由」というのがあるように思います。
例えば、一切の消費活動に関して、制約が無い状態。
何か、欲しいものがある時に、全く制限事項が無いとします。
そうすると、
ペットショップで売っているオカヤドカリのオカちゃん、
世界で最も海がキレイなモルディブ共和国、
大好きなモデルである冨永愛さん、
などなど、何でも手に入るわけです。
(既に、私の想像を超えている気もしますが。。。笑)
とはいえ、
ここでそもそも「欲しい」という願いはどこから来ているのでしょうか?
これが、意外と自由ではない気がします。
服が欲しいとか、車が欲しいとか、家が欲しいとか、
「欲しい」にも色々あると思いますが、
生まれてから今まで、自分に入ってきた情報を、全て消してしまった時に、
同じような「欲しい」という感情は生まれるでしょうか?
もしその人が「車」という存在を知らなければ、
「車が欲しい」とは思いようがないわけです。
とすると、「欲しい」という感情自体が、自分の持っている情報に
隷属しているわけです。
そういう意味では、一般的に語られる「自由」というのは、
実はそんなに「自由」ではないように思われます。
次に、その人が持つ「価値基準」について考えてみます。
上述の例では、「欲しい」という感情が、そもそも自分の持つ情報からは
開放されていない、ということを書きましたが、
裏を返せば、
「欲しくない」というのも「自由」として扱うことができると思います。
例えば、家という存在を自由に手に入れる力があったとしても、
「家は欲しくない」と考えている人は手に入れないわけです。
そこでは、「所有に関する価値基準」なるものが、その人なりにあるわけです。
「この価値基準自体を自由にする」というのは、
カンタンなことでは無いように思います。
人間は、社会的な動物と言われますが、
「ある社会における価値基準」
というのは、その社会の構成員によって、
ゆるやかに(時としては強固に)共有されています。
また、成熟した消費社会においては、
大衆の価値基準を操作するプレイヤーもたくさんいますし、
そうやって操作された価値基準を持つ人は更に多いわけです。
これが「規範」として、その社会においてゆるやかに定着し、
二項対立の図式で、「逸脱」も生まれます。
その人が価値基準を「規範」に近づけることによって、
その価値基準に共感する人が増えますし、
逆に、その人の価値基準が「逸脱」の側にあれば、
対立者が増えることになります。
ですので、価値基準について「規範」との差異がある状態、
というのは、本人的には、そんなに楽な状態ではありません。
第一には、そういう状態に耐えるだけの精神力が必要ですし、
第二には、そういう状態にありつつも生きていく上では、相応の調整力も必要です。
その点で、
「自由に耐えうる人間になること」の重要性をコメントしてみたわけです。
ただし、このコメントの前提は「逸脱した価値基準の存在に意味がある」
というものです。
この前提が無くなれば、こんなコメントは成立しないのですが、
それこそが、「自由」の要件をどこで線引きするか?ということなのです。
RBCにおいては、世の中に新たな価値を生み出す「ビジネスクリエーター」
の輩出を目的にしていますので、
「新しい価値」の「新しさ」についても考える必要があります。
「新しさ」には、既存の価値に対する「逸脱」がつきものです。
また、「新たな価値」が生まれることによって、世の中がより豊かに、
エキサイティングになるという意味があります。
(生態系的な視点で見て、バランスが取られる、という意味もあります)
ですから、「自由に耐えうる人間になること」というのは、
RBCという場においては「規範」となりますし、
世の中全体的には、「視点を変える」という点で、
若干の「逸脱」を起こすことでもあります。
と、かな?り長い説明になりましたが、(笑)
そんなことを考える次第です。
「自由に耐えうる人間になろう!」という方は、RBCへの会員登録をどうぞ!
明日は友部くんです。

Nomura